LGBTが愛する人と死別すること
お疲れ様です。
昨日ブログ村を徘徊しているとちょっと気になったブログがあり、引き込まれるように読んでしまった。
それがこちらのブログ。
けいさん。50代半ば。ゲイ。パートナーの方と20年以上連れ添った後、死別。
記事数が多いため、全ての記事はまだ読めていませんが、特にブログ開設直後の記事は涙なくしては読めません。唯一のパートナーであり、家族を失った50代男性の悲痛な心の叫びで溢れているのです。。けいさんを自分に置き換えると、平気で読めません。
新しい記事では、開設直後のような雰囲気は若干和らぎましたが、それでも胸に来るものがあります。
パートナーが亡くなったことによって、法的な家族では無いことから色々な制度から零れ落ちること、望まないカミングアウトを強いられる場合があること、相手の家族の無理解からのその後の葬儀や法要からの排除、さらにその家族からあからさまな嫌悪をぶつけられる場合もあること、ふたりの関係性が閉じたものになりがちで、地域社会や人間関係の希薄さからパートナーを喪うと孤立を深めてしまうこと等々、遺された者は愛する人の死によって悲しみの極致に居るのに、更に追い打ちをかけられるような様々な事態に遭遇するケースがあるのです。
上記記事にある、この文章。LGBTとして生きるものとして深く考えないといけない部分ではないか、と思います。二人で生きていける間はそれでもいい。けどその後、遺された者はどうやって生きていくのか?
どうしたって閉鎖的になりやすいLGBTの関係性。幸いにも私とミジン子は私たちの関係性を知ってくれている共通の友達がおりますが、その絆の強さはいかばかりか。
私はミジン子を置いて先に死ぬつもりはない。ないけど、そんなの私の決意一つでどうにかなることではないことは分かっている。
私は今、31歳。元気なうちに、色々手を打っておきたい。
ミジン子と私。どちらが先に逝くことになっても、遺された者は遺された世界で生きなくてはいけない。その人生が少しでも彩のあるものになるように。
いつもありがとうございます。